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宇宙とポップミュージックの年代記 vol.04

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「エルビス・プレスリーの宇宙からの贈り物」 速水健朗


■POPの輸出とグローバリゼーション

1953年に自費でレコードを吹き込んだ若者の名前はエルビス・プレスリー。その3年後には『ハートブレイクホテル』で誰もが知る存在となった彼の登場はポップ・カルチャーの世界を変えた。まだ音楽を聴くメディアがラジオだった時代に、レコードプレイヤーの普及を助けたのはエルビスの存在だった。それ以降、45回転シングルの時代になった。エルビス以降、ポピュラー文化の主な消費者は10代の少年少女、この当時から使われる言葉になった「ティーンエイジャー」となった。エルビスのレコードはアメリカにとどまらず、世界のティーンエイジャーにひろまり、以降、ポピュラーミュージックとはほぼアメリカの商業音楽のことを指す言葉となる。20世紀の半ばにピークを迎えたアメリカの隆盛は、映画や音楽といったポップ・カルチャーとして世界へと拡がり、市場の傾向だけでなく世界の生活を変えていった。

 
■世界を覆うグローバル通信衛星網

世界を3つの静止衛星で覆う放送・通信網が提唱されたのは1945年の話。これを発表したのはSF作家のアーサー・C・クラークだった。1961年にケネディ大統領が宇宙開発を宣言し、このグローバル放送網の話は一挙に具体化した。宇宙に飛ばした衛星を通し、中継放送が可能になったのは1962年のテルスター打ち上げ成功以降のことである(参照 vol.01「ジョー・ミークと衛星中継の時代」)。1963年にはテルスターに変わり、国際機関のインテルサットが結成。最初の静止衛生シンコム1号、2号が打ち上げられ、東京オリンピックの世界中継が実現する。

音楽史的には1967年にはビートルズが世界24ヶ国を結んだ衛星同時中継の番組で『オール・ユー・ニード・イズ・ラブ』を発表しているが、大規模コンサートが世界に中継されたのは1973年1月のエルビスの『エルヴィス・アロハ・フロム・ハワイ』が最初だった。

エルビスのマネージャーであったパーカー大佐はプレスリーをアメリカの外に出すことを嫌がった。結局、生涯を通じてエルビスが日本に来ることはなかった。1972年2月、国交がなかった中国をアメリカのニクソン大統領が訪れた。このニクソン訪中の様子は全米に宇宙中継された。これを見たパーカー大佐は、エルビスのコンサートを世界中に中継する企画を思いついた。

日本をはじめとするアジア各国が生でこれを放送し、翌日にはヨーロッパに向かって送られた。このコンサートを見た人間は15億人以上といわれる。このコンサートはチャリティーコンサートでもあり、収益はガン基金に贈られた。この12年後、ロンドンのウェンブリーとフィラデルフィアの両会場に多くのスターが集結し、衛生中継で世界中に放送がされたチャリティーイベント『ライブエイド』が開催。イベントとしてはこちらの方が大規模かもしれないが、エルビスがひとりでやったことを薄めて大勢のアーティストでやっただけに過ぎない。

 
■エルビスの頂点とその死

『エルヴィス・アロハ・フロム・ハワイ』のオープニングでは、荘厳に『ツァラトゥストラかく語りき』が鳴り響いた。当時のエルビスのステージの定番だったようだが、いうまでもなく『2001年宇宙の旅』の冒頭を意識したものだ。すでにラスベガスで定期的に豪華なショーを行なっていたエルビスのコンサートは洗練されたものだった。ロック史観的なエルビスの評価は50年代で終わっているかもしれないが、この頃のエルビスこそキャリアの頂点だった。この4年後にエルビスはこの世を去る。

エルビスが最初にやったのは世界中の10代にレコードを販売したことと衛星で世界中継したことだけではない。往年の人気歌手がラスベガスでショーをやること、歌手で人気が出たアイドルを主演にワンパターンの映画を量産すること、笑顔を見せないロックスター像のはじめ、これらのショービジネスの世界のビジネスモデルはすべてエルビスから生まれた。

世界はどんどん狭くなり、グローバル化が進んでいるという。しかし、15億人がほぼ同時に共有できるコンテンツは『エルヴィス・アロハ・フロム・ハワイ』以降生まれていない。

Written by 速水健朗

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